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毛利家が頼り過ぎた小早川隆景の「政治力」

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第76回

■危急存亡の時にみせた隆景の「政治力」

 

 この頃には隆景は毛利家の戦力で、織田家に立ち向かうのは難しいと考えていたようです。

 

 すでに武田家は滅ぼされ、謙信亡き後の上杉家も大幅に弱体化し、北条家は織田家に従属の姿勢を見せていました。

 

 隆景は秀吉からの和議を受け入れた直後に、協力関係にあった雑賀衆(さいかしゅう)から本能寺の変の報せを受けます。一部の家臣たちは秀吉追撃を進言しましたが、隆景は家臣たちを抑え、領国の守りを固めつつ、織田家内部の抗争には中立の姿勢で臨みました。隆景は感情に流されず、毛利家には追撃するだけの余力が残されていないと冷静に判断したと言われています。

 

 結果として、秀吉が実権を掌握する事に成功したことで、毛利家は豊臣政権の間接的な協力者の位置づけを得ています。その後も隆景は安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を通じて、毛利家と秀吉との関係強化に努めていきました。

 

 四国征伐では伊予方面の先鋒を担当し、戦後にその功績により伊予一国を与えられています。隆景は伊予で影響力のある河野家や西園寺家を上手く取り込んで、統治の安定化に成功しています。

 

 隆景の「政治力」を高く評価していた秀吉は、毛利家からの切り離しを図り、筑前国・筑後国・肥後国の一部を合わせた約37万石の独立大名とします。

 

 隆景はあらゆる提案で逃れようとしましたが、「政治力」では上手な秀吉に押し切られてしまいます。

 

■隆景の「政治力」を失った毛利家

 

 毛利家は40歳を超えた輝元に嫡子ができなかったため、後継者問題を抱えていました。そのため、1593年に、秀吉に嫡子秀頼(ひでより)が誕生すると、養子であった秀秋(ひであき)の受け入れ先として、毛利家が候補になったと言われています。

 

 黒田孝高(くろだよしたか)を通じてその情報を入手すると、隆景はすかさず甥の秀元を輝元の養子とし、秀吉との対面に成功し、正式に認められます。

 

 そして代わりに小早川家の後継者として、秀秋を迎え入れることにします。1595年に秀次事件の余波により秀秋が改易されますが、秀吉に働きかけて赦免されています。同年に筑前国30万7千石を秀秋に譲り隠居しています。

 

 その頃に、徳川家康や前田利家(まえだとしいえ)、毛利輝元とともに、豊臣政権を支える重要な役割を申しつけられています。秀吉からの信任は厚く「西日本は隆景に任せれば大丈夫」と賞されています。

 

 しかし、関ヶ原の戦いの3年前に、隆景は隠居先の備後国三原城にて死去してしまいます。それまで家中を束ねていた隆景を失ったことで、毛利家の足並みが徐々に揃わなくなっていきます。

 

 輝元に嫡子秀就(ひでなり)が誕生したことで、別家を立てた秀元と吉川広家(きっかわひろいえ)を含めた所領問題が拗れ始めます。家康の介入などもあり解決したように見えますが、輝元、秀元、広家、恵瓊たちの間に大きなしこりを残したまま関ヶ原の戦いを迎えます。

 

 その結果、毛利家は一貫した行動を取れないまま迷走を続けます。輝元が西軍の旗頭として恵瓊や秀元と共に積極的に活動する一方で、広家や他の重臣たちは本領安堵を信じて東軍と内通しています。

 

 加えて、養子の秀秋が率いる小早川家は、毛利家とは別の思惑で動き、最終的に西軍から寝返っています。

 

 毛利家は、「政治力」に勝る家康によって手玉に取られ、徹底抗戦することなく和議を結んでしまいます。そして、本領安堵の約束は反故にされ、防長二国へと大幅に減封されてしまいます。

 

■一人の「政治力」に依存することの危険性

 

 隆景の類まれなる「政治力」によって、本能寺の変以降の流動化した政局の中、毛利家は中国地方における版図の維持、豊臣政権内での地位向上に成功しています。

 

 しかし、隆景が死去した途端に、毛利家は混乱を見せるようになり、関ヶ原の戦いでの中途半端な行動などもあり、大幅に弱体化することになりました。

 

 現代でも、「政治力」を有する一人の人材を失った途端に、急激に弱体化する組織が多々あります。

 

 もし、隆景があと5年ほど長生きできていたら、関ヶ原の戦いの結果は違ったものになっていたのかもしれません。

 

 ちなみに、隆景は正室の問田大方を大事にし、生涯に渡って側室を置かなかったと言われています。これも小早川家の旧来の家臣団の統率のためだったという説もあります。

 

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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